少女は衝撃を受けた。
貴方は何を言っているの?
貴方の口は動いているのに何故私には何も聞こえないの?
ハ ル モ ニ ウ ム
Harmonium
朝目が覚めて、彼女は気づいた。
毎朝聞こえる母親が朝食を作る音が、鳥のさえずりが聞こえない。
今日は静かな朝だ、はじめはそう思った。
けれどしばらくして彼女はおかしく思った。
着替えても衣擦れの音がしない。ドアを開けても物音ひとつしない。
「なぜかしら?」
夢でも見ているのかと思った。
朝食を取りにダイニングへ出て行くと母親は微笑んで口を動かした。
だが、母親の優しい声は聞こえない。
「ママ、何?聞こえないわ」
彼女のそばまで来て肩に手を置き母親は何度か口を動かした後、さっと顔色を変えた。
母親が必死で何か叫んでいる様子を見せると、父親が走ってきた。
その朝以来、彼女は耳が聞こえなくなった。
音楽の大好きな少女であったのに、その日を境に彼女のピアノは音を立てなくなった。
幼い頃から音に親しんできた彼女は、楽譜を見ただけでどんな曲か頭の中に流す事が出来た。
けれど、もうその音楽を聴くことは出来ない。
ヴァイオリンの少し切ない音も、クラリネットのちょっと間の抜けた陽気な音も、
記憶の中から呼び起こす事は出来ても、新しく感じ取る事は出来ない。
彼女の身体はどういうわけか音のアニマを失ってしまった。
はじめに失ったのは音を感じるアニマだけであったのに、いつのまにか彼女は塞ぎこみ喋らなくなっていた。
音を発するアニマをも、彼女は失ってしまっていた。
彼女には幼馴染の少年がいた。名前はイシスといった。濃い青の瞳に青みがかった銀髪を持った、色白で線の細い少年だった。
イシスはフルートの技能に優れた少年で、彼女は彼の吹くフルートの甘やかな音が大好きだった。
けれどイシスの吹くフルートの音を聞く事はもう出来ない。
それでもイシスは毎日彼女を元気付けようと、彼女の家に通った。けれど、励ましにやってくるイシスの声も届かない。
イシスにできる事と言えば、膝を抱えて涙を溜める彼女の、少しウエーブのかかった栗色の髪を、そっと撫でる事だけだった。
イシスは自分の無力を呪った。
塞ぎこむ彼女にもう一度、フルートを聞かせてあげたい。
しばらく雨の日が続いて、イシスのやってこない日が続いた。
ずっと強かった雨が幾分か細くなり和らいだある日。
彼女の部屋の窓を叩く者がいた。彼女がそっと窓を押し開けると、そこにはパンフルートを持ったイシスが立っていた。
少し高い位置の窓から軽く身を乗り出した彼女の額に、僅かに背伸びして軽く開いた指先を当てるとイシスは音の術法を唱えた。
何が何だかわからずに薄蒼の瞳を見開く彼女の目の前で、イシスはパンフルートに唇を当てた。
イシスがそっと目を閉じて息を吹き入れると高く細い音が彼女の耳に届いた。
音のアニマの戻った彼女のために、懐かしくて切ない響きの曲をイシスのパンフルートは奏でた。
彼女は久方ぶりに聞く幼馴染のフルートの音色に聞き入った。
ひび割れていた彼女の心に染みとおるように、彼のフルートは響いた。
奏で終わると、イシスはそっと唇からフルートを離した。
彼女は僅かに目に涙を浮かべながら微笑み、以前そうしていたようにイシスに拍手を送った。
イシスはおどけて、気取った宮廷楽士のように丁寧なお辞儀をした。
「音のアニマの戻った君に一番に聞かせる言葉を何にしようかずっと考えていたんだ。でも、いざとなったら何ていったらいいのか…」
イシスは照れくさそうに頭をかいた。そしてにこりと笑った。
「…『音』が戻って君が笑ってくれたら、僕はそれだけで幸せなんだ。
折角君が笑えるようになったのに僕はもう行かなくてはならないけれど、
…どうしても行かなければならないんだけど、たまにこのフルートを見て僕の事を思い出してくれたらとても嬉しい」
そう言ってイシスはパンフルートを差し出した。彼女は黙って受け取った。
「最後に君の声を一度だけ聞かせて」
彼女は頷くと、自らの声を確かめるようにそっと声を絞り出した。
「…ありがとう、イシス。また会える事を祈って、さよならは言わない。大好きよ」
イシスは泣き笑いのような表情を浮かべると、「僕も」といい、手を振って彼女に背を向けた。
彼の向かう先には鋼の鎧を纏った金髪の男が、細い雨の中静かにたたずんでいた。
以来、彼女はイシスの姿を見ていない。
ただ、彼女が時折パンフルートの入った木箱をそっと開けると、パンフルートは風を孕んであの時の音色を静かに蘇らせるだけだ。
例えば耳が聞こえなくなった人が耳が聞こえるようになるのが幸せ、と取るのは耳の聞こえる人たちの傲慢だとは思うのですが。
04/11/19
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